硝子戸の中

雑記用

不思議の国への逃亡

f:id:toukko:20201103070305p:plain

 

2020年6月8日の記事を移動したものです。 

 

パラパラと本をめくっては閉じ、めくっては閉じ、をひたすら繰り返してる。何らかの哲学書に救われたような気がしても、ひょっとした、本当にしょうもないことがきっかけで、再び生きている事、存在することにわけのわからない漠然とした不安が呼び起こされてしまう。再び追い立てられているかのように本をめくっては閉じ、めくっては閉じを繰り返す。もちろん内容なんか頭に入っていない。今の世の中では気軽に街に出て気分転換というわけにもいかないから、ひたすら自分と向き合うことになる。そういう場合、鏡に写るのは過去の自分だ。未来の自分なんか知らないし、今の自分には自覚的にはなれない。そうなるとやっぱり自分と向き合うということは過去を振り返る事だ。過去の自分と言いはしたが、「過去の自分」なんてものは私にはないのかもしれない。「過去の自分」なんてかっこいい言葉で未熟だった自分を省みることができるのは、おそらく、まだ柔らかくて透明だった時間を「過ぎ去ったもの」として受け止めることの出来る人だけなのかもしれない。私は全て連れてきてしまった。心に受けた傷も、どろどろとした感情の塊も、制服のポケットにカッターナイフを潜ませていた小学三年生の凶暴さも。
私は世の中に対する冷笑的な態度を、随分と早くに身につけてしまった。
近所の子供のお母さんが「あの子と遊ぶとあんたまで頭がおかしくなるのよ」といったのを同級生の女の子から聞いた時も、学校の池からシューズを見つけた時も、誰かの罪をなすりつけられた時も、椅子に書いてあった死ねの文字を見つけたときも、父親に殴られた時も、私は感覚を捨てることに必死になった。自分が痛みをコントロールし、世界から離れることが出来るという事を私は誇りに思った。
当時気に入っていたのは芥川龍之介宮沢賢治の詩といった日本文学や、ルイスキャロル、ミヒャエル・エンデ、ヴェルヌ、などの冒険物語だった。特にルイスキャロルの作品を読むと、世界が薄い膜に覆われているかのように遠ざかって見え、心地よかった。
私は自分を救うために自分の世界を絵や小説にしていたが、今見るとどれも、シュルレアリズムに分類される類のものだろうと思う。
私は学校でも常に白昼夢の中でうとうとしていた。先生や周りの生徒、保護者はますます気味悪がり、私の絵は気持ち悪いだとか、影が紫で書かれているのが不正確だとか、そんなくだらない理由で破られたりもした。私はますます自分の殻に閉じこもるようになった。夜に見るのは血生臭い夢が増えた。空を自由に飛び回り、怯えてベランダにいる自分を上空から見守ったりもした。
高校生になってからも私はいじめを受け、私は本格的に精神科に通院する事を余儀なくされた。この頃から意図せずとも、空から自分を見下ろしているような、世界が自分から離れていくような、まるで自分が今いるのは並行世界であるかのような気持ちの悪い感覚に悩むようになり、先生には「幼少期からのトラウマによる離人症」だと言われた。
私にはこの言葉がイマイチピンとこない。私は占いも信じないし、幽霊も神も信じない。迷信深い方ではないだろう。それでも観念的には私はまだ不思議の国がどこかにあるような気がしていて、いつかそこに逃げれるような気がしている。私が作品を作るのが好きなのは、何かを作るという行為は、白昼夢と同じように私をどこか遠くへ連れて行ってくれるからだ。