硝子戸の中

雑記用

映画とは何か?について考える

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2020年7月31日の記事を移動したものです。

 

「映画とは何か?」と聞かれたら何と答えるだろうか。バカみたいな質問のようにに感じる人も少なくは無いだろう。「映画」ときけばほとんどの人が、わざわざ説明する必要もないくらい当たり前のもののように思い、この質問に対する答えとして「物語がある一時間〜二時間前後の映像」と言われても大した違和感は持たないのでは無いだろうか。

 2020年のアカデミー賞前に興味深い事があった。映画監督のマーティンスコセッシが「マーベルは映画では無い」と発言したのだ。殆どの人にとってはマーベルやスターウォーズこそ映画なのでは無いだろうか。フランシスフォードコッポラもスコセッシに同調し、この二人は人々の罵倒と嘲笑の対象になった。この意見を受けてマーベルの俳優が「映画館でやってるんだから映画なんじゃないかな」とユーモアを交えて発言したり、CEOが「あいつらの映画よりこっちの方が売れてるから凄い」と発言したり、スコセッシに面会を申し込んだと言うニュースも出た。(面会までくるともはや独裁主義的なものを感じるがそこは置いておいて)

 スコセッシはより正確には「シネマでは無い」と言ったのであって、「ムービー」である事は否定しなかった。(スコセッシは自身の作品ミーンストリートについても「これは映画(フィルム)では無い」という発言をしている。ここらへんの曖昧な使い分けはおそらく本人にしかわからない。)これを文学に置き換えると夏目漱石山田悠介に「あなたの作品は純文学では無いですね」と言ったようなもので、炎上するような事では無いだろう。スコセッシのインタビュー全文を読むと、彼が危惧していたものがわかる。結論から言えば、スコセッシが目的としていたのは「価値観の保存」だ。

 スターウォーズが大きな転換地点となりフランチャイズ映画が主流になってからというもの、芸術映画はどんどん端に追いやられて来た。しかし、ピカソの作品を壁に飾りたい人が、人気のイラストレーターの作品を飾りたい人に比べて少ないからと言ってピカソの重要性が薄れないのと同じで、いくらフランチャイズ映画が主流になったからと言って芸術映画の価値は薄れないはずだ。けれどもそれを一生懸命訴える人が居なければ、芸術映画は「売れない」ものとして忘れ去られてしまうだろう。スコセッシはその様な映画の価値を守ろうと、勇気を出して声をあげたのだ。彼はフランチャイズ映画やエンターテインメント作品が嫌いなわけではないし、単に下らないものとして見下したかった訳ではない。スターウォーズを始めて見たときはその視覚効果の豊かさに感動したと言っている。彼が危惧していたのは一つの価値観だけが支配的になってしまうことだ。

 例えば大衆文学の評価基準が全てだという事になってしまえば、エンターテインメント性が薄く、哲学的でイデオロギーの濃い作品は「わかりにくい」「読みにくい」ものとして排除されていく事になるだろう。文学という分野では、純文学という言葉でそれらの小説が守られて来たからこそ、一つの価値観に縛られない柔軟な作品が生まれ続けているわけだ。

 このように、純粋芸術と大衆芸術の間にある程度の線引きをしなくては、純粋芸術は適切な評価を受けることが難しくなる。「芸術は皆のものだ」と言えば聴こえは良いが、純粋芸術と大衆芸術を統合してしまう事は、価値観の統一に繋がり、数では決して勝つ事の出来ない「難解」と呼ばれる作品を排除してしまう危険性があることは否めない。

 純粋芸術的な価値観で評価されるべき映画の価値を守るのは予想以上に大変な事なのかもしれない。大衆芸術の「売れるものを作る」という価値観は、様々な分野に共通のものだ。音楽活動を始める人達も漫画を描く人達も「売れるぞ」「有名になってやる」という意気込みで始めるのでは無いだろうか。自分の芸術が純粋さを失ってしまった事に苦悩し、ついには自殺までしてしまったカートコバーンの気持ちがめちゃくちゃわかる、という人はなかなかいないだろう。しかし、「売れているもの、より多くの人を楽しませるものが凄いものだ」という考え方が絶対的な真理である事はあり得無い。「売れてるものが良いものなら、世界一うまいラーメンはカップラーメンだ。」と誰かが言っていたが、商業主義だけに重きを置いてしまえば確かにそれが真理ということになってしまうのである。

 

 そもそも大衆的な価値観というものは数が多く、沢山の人々に浸透しているからこそ大衆的なのだが、なぜこの様に、一つの価値観ばかりが支配的になってしまい、人々がそれを揺るぎないものだと盲信してしまうような事態が起こるのだろうか?
それは大衆の主義や思想というものが、多くの場合まったくの偶然の上に成り立っているからだ。ゲーテの言葉にこんなものがある「三千年の歴史から学ぶことを知らぬ者は、知ることもなく、闇の中にその日その日を生きる」歴史を知らなければ私達の選択は偶然の力に頼る事になる。映画とは何かを考えるにも、選挙で投票するにも、何かをするときに目標を定めるにも、ましてや洋服や今日食べるものを選ぶときにでさえ、私達は常に自分の力だけでは断ち切る事の出来ない見えない糸で操られている。 

 そのままでも物質的にも精神的にも豊かな生活は送れるし、生きていく中で特段困る事があるわけでも無い。しかし、何かを真剣に学びたいなら、何かに真剣に取り組みたいなら、ある程度自覚的な方が良い。

 この見えない糸を解くには、この見えない糸がどこから伸びているのかを知る必要がある。その手がかりとなるのが歴史だ。
また歴史を学ぶ上でも、様々な主義思想から学ぶ必要がある。視点が変われば出来事が持つ意味も大きく変わり、そこから得られるものも随分異なってくる。

 

 わざわざ美術館に出向いてどこぞの芸術家がどこかから拾って来た便器をくまなくチェックし、作品の良さを聞かれたら「彼は芸術の価値を問い直したのです」とどこかで聞いたお決まりの文句を何の疑いもなく口にし、便器のポストカードを買って帰る。便器を必死に見つめていた人々の中でどれだけの人がこの行動に自覚的だろうか。芸術家が芸術の価値を問い直すために便器を持ち込んだなら、わざわざ美術館に便器を観に行く理由とはなんだろうか。

 「どうやら、なにかほんの小さな点で、私はこの人よりも知恵があるようだ。つまり、私は、知らないことを、知らないと思っているという点で」というのはソクテラスの言葉だが、偶然の中を生きて平気な顔をしている人は、知らないという事を知らない人達だ。彼等の人生はそのままでも素晴らしいだろうし、私はそれを否定するつもりは毛頭無い。だがその様な状態では何かを学ぶ事は難しい。

 先程も言った通り、多くの人の映画の定義は偶然によって形作られている。何事もわかった気になってはいけないのだ。様々な素晴らしい作品に出会い、映画というものを根本から問い直すことは、失われつつある価値観を保存し、自分自身の価値観を問い直す事にもつながる。視野を広げることは選択肢を広げてくれる事に繋がり、人生をより豊かなものにしてくれるだろうと思う。