硝子戸の中

雑記用

映画とは何か?について考える

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2020年7月31日の記事を移動したものです。

 

「映画とは何か?」と聞かれたら何と答えるだろうか。バカみたいな質問のようにに感じる人も少なくは無いだろう。「映画」ときけばほとんどの人が、わざわざ説明する必要もないくらい当たり前のもののように思い、この質問に対する答えとして「物語がある一時間〜二時間前後の映像」と言われても大した違和感は持たないのでは無いだろうか。

 2020年のアカデミー賞前に興味深い事があった。映画監督のマーティンスコセッシが「マーベルは映画では無い」と発言したのだ。殆どの人にとってはマーベルやスターウォーズこそ映画なのでは無いだろうか。フランシスフォードコッポラもスコセッシに同調し、この二人は人々の罵倒と嘲笑の対象になった。この意見を受けてマーベルの俳優が「映画館でやってるんだから映画なんじゃないかな」とユーモアを交えて発言したり、CEOが「あいつらの映画よりこっちの方が売れてるから凄い」と発言したり、スコセッシに面会を申し込んだと言うニュースも出た。(面会までくるともはや独裁主義的なものを感じるがそこは置いておいて)

 スコセッシはより正確には「シネマでは無い」と言ったのであって、「ムービー」である事は否定しなかった。(スコセッシは自身の作品ミーンストリートについても「これは映画(フィルム)では無い」という発言をしている。ここらへんの曖昧な使い分けはおそらく本人にしかわからない。)これを文学に置き換えると夏目漱石山田悠介に「あなたの作品は純文学では無いですね」と言ったようなもので、炎上するような事では無いだろう。スコセッシのインタビュー全文を読むと、彼が危惧していたものがわかる。結論から言えば、スコセッシが目的としていたのは「価値観の保存」だ。

 スターウォーズが大きな転換地点となりフランチャイズ映画が主流になってからというもの、芸術映画はどんどん端に追いやられて来た。しかし、ピカソの作品を壁に飾りたい人が、人気のイラストレーターの作品を飾りたい人に比べて少ないからと言ってピカソの重要性が薄れないのと同じで、いくらフランチャイズ映画が主流になったからと言って芸術映画の価値は薄れないはずだ。けれどもそれを一生懸命訴える人が居なければ、芸術映画は「売れない」ものとして忘れ去られてしまうだろう。スコセッシはその様な映画の価値を守ろうと、勇気を出して声をあげたのだ。彼はフランチャイズ映画やエンターテインメント作品が嫌いなわけではないし、単に下らないものとして見下したかった訳ではない。スターウォーズを始めて見たときはその視覚効果の豊かさに感動したと言っている。彼が危惧していたのは一つの価値観だけが支配的になってしまうことだ。

 例えば大衆文学の評価基準が全てだという事になってしまえば、エンターテインメント性が薄く、哲学的でイデオロギーの濃い作品は「わかりにくい」「読みにくい」ものとして排除されていく事になるだろう。文学という分野では、純文学という言葉でそれらの小説が守られて来たからこそ、一つの価値観に縛られない柔軟な作品が生まれ続けているわけだ。

 このように、純粋芸術と大衆芸術の間にある程度の線引きをしなくては、純粋芸術は適切な評価を受けることが難しくなる。「芸術は皆のものだ」と言えば聴こえは良いが、純粋芸術と大衆芸術を統合してしまう事は、価値観の統一に繋がり、数では決して勝つ事の出来ない「難解」と呼ばれる作品を排除してしまう危険性があることは否めない。

 純粋芸術的な価値観で評価されるべき映画の価値を守るのは予想以上に大変な事なのかもしれない。大衆芸術の「売れるものを作る」という価値観は、様々な分野に共通のものだ。音楽活動を始める人達も漫画を描く人達も「売れるぞ」「有名になってやる」という意気込みで始めるのでは無いだろうか。自分の芸術が純粋さを失ってしまった事に苦悩し、ついには自殺までしてしまったカートコバーンの気持ちがめちゃくちゃわかる、という人はなかなかいないだろう。しかし、「売れているもの、より多くの人を楽しませるものが凄いものだ」という考え方が絶対的な真理である事はあり得無い。「売れてるものが良いものなら、世界一うまいラーメンはカップラーメンだ。」と誰かが言っていたが、商業主義だけに重きを置いてしまえば確かにそれが真理ということになってしまうのである。

 

 そもそも大衆的な価値観というものは数が多く、沢山の人々に浸透しているからこそ大衆的なのだが、なぜこの様に、一つの価値観ばかりが支配的になってしまい、人々がそれを揺るぎないものだと盲信してしまうような事態が起こるのだろうか?
それは大衆の主義や思想というものが、多くの場合まったくの偶然の上に成り立っているからだ。ゲーテの言葉にこんなものがある「三千年の歴史から学ぶことを知らぬ者は、知ることもなく、闇の中にその日その日を生きる」歴史を知らなければ私達の選択は偶然の力に頼る事になる。映画とは何かを考えるにも、選挙で投票するにも、何かをするときに目標を定めるにも、ましてや洋服や今日食べるものを選ぶときにでさえ、私達は常に自分の力だけでは断ち切る事の出来ない見えない糸で操られている。 

 そのままでも物質的にも精神的にも豊かな生活は送れるし、生きていく中で特段困る事があるわけでも無い。しかし、何かを真剣に学びたいなら、何かに真剣に取り組みたいなら、ある程度自覚的な方が良い。

 この見えない糸を解くには、この見えない糸がどこから伸びているのかを知る必要がある。その手がかりとなるのが歴史だ。
また歴史を学ぶ上でも、様々な主義思想から学ぶ必要がある。視点が変われば出来事が持つ意味も大きく変わり、そこから得られるものも随分異なってくる。

 

 わざわざ美術館に出向いてどこぞの芸術家がどこかから拾って来た便器をくまなくチェックし、作品の良さを聞かれたら「彼は芸術の価値を問い直したのです」とどこかで聞いたお決まりの文句を何の疑いもなく口にし、便器のポストカードを買って帰る。便器を必死に見つめていた人々の中でどれだけの人がこの行動に自覚的だろうか。芸術家が芸術の価値を問い直すために便器を持ち込んだなら、わざわざ美術館に便器を観に行く理由とはなんだろうか。

 「どうやら、なにかほんの小さな点で、私はこの人よりも知恵があるようだ。つまり、私は、知らないことを、知らないと思っているという点で」というのはソクテラスの言葉だが、偶然の中を生きて平気な顔をしている人は、知らないという事を知らない人達だ。彼等の人生はそのままでも素晴らしいだろうし、私はそれを否定するつもりは毛頭無い。だがその様な状態では何かを学ぶ事は難しい。

 先程も言った通り、多くの人の映画の定義は偶然によって形作られている。何事もわかった気になってはいけないのだ。様々な素晴らしい作品に出会い、映画というものを根本から問い直すことは、失われつつある価値観を保存し、自分自身の価値観を問い直す事にもつながる。視野を広げることは選択肢を広げてくれる事に繋がり、人生をより豊かなものにしてくれるだろうと思う。

パトカー

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 2020年9月5日の記事を移動したものです。

 

 

九月五日、土曜日。
今日は病院の帰りにどこか遠い所に行きたくなって、いつもは曲がらない角を曲がった。
 そこは少しひんやりした通りで、さっきまでのうざったるい太陽の光が届かないことが嬉しくて、私はつい、飛んだり跳ねたり、ぐるぐる回ったりしながら進んだ。青い空を中心にして、新鮮な景色がぐるぐる回る。すごくきもちがいい。

 それでもそうやって暫く行くと、いつもの通りに出た。私は残念で仕方がなくて、しばらくの間前を睨みつけたままぼーっと突っ立っていた。そのまま五分くらいが過ぎたと思う。やっぱり、どう考えても、もう家じゃん、そう思ったらすごくムカついて来た。
誰がこのまま家に帰るものか。

すこし行った先に廃アパートが30件くらい並んでいたのを思い出した(数えてはないけど、すごく沢山あることだけはたしか)。
 今度は怒りに任せて、熱くて重たい空気を両手で斬るように、ぐるぐると回りながら進んだ。
 私は幼い頃からもやもやすると両手を広げてぐるぐると回る癖がある。よく怒られるけど、今日は車もあまり通らないので良い。
 廃アパートに着くと、すこし安心した。誰も住んでない大きな建物が並んでいるのは不気味と言えば不気味かも知れないけど、昼間だから全然怖くない。私はぐるぐる回って歌いながら廃墟の間を行ったり来たりした。凄く楽しかった。

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廃墟の中をそうやって進むと、段々木の影が濃くなって来て、私は怖くなった。

 自殺者が多いという山に私を置き去りにした、精神病を患っていた叔母の事を思い出した。

 私はすこし不安になったけど、歌はやめなかった。回るのもやめなかった。

 そうやってもっと奥へ奥へ進むと、空気中の濁色が増えてきた。そして唐突に、通路を塞ぐようにして置いてある、ピンクの滑り台が見えた。

皮膚が泡立つのを感じた。谷底に突き落とされたような急激な不安が私の全神経を襲った。脚が竦んで手がぶるぶると震えた。

その先に進んでは行けない気がした。

今考えてもぞっとする。
何故だかわからないけど、凄く怖かった。

灰色の中に突如浮かんだパステルカラーが、この世のものではないように不気味だった。
私はパニックを起こして絶叫しはじめた。不安で口がカラカラに渇いた。

私は走りながら叫び続けた。背後から何かに追いかけられている様な気がした。

 出口に人影が見えて、私は怖くなってうずくまった。
「大丈夫ですか」
頭上から声がする。この声は信用してはならない。私はもっと強く叫んだ。
「落ち着いてください」
私は過呼吸を起こした。気づくと地面が血塗れだった。
「警察のものです」
それを聞いて私はほっとして顔を上げた。
「鼻血が出てますよ」
私は鼻をこすりながら警官の顔を見た。優しそうな中年男性だった。
「どうなさいましたか?」
私は特にどうもしていないので、「どうもしませんのでもう帰ります」と答えた。警察の人はキョトンとしていた。
私は帰ると言い張ったけど、警察の人は帰してくれなかった。かわりに優しくパトカーに乗せられた。
車内は涼しく、私は少し楽しい気分になって、つい鼻歌をうたった。
 血の巡りが回復してきたせいか、さっきの鼻血がぶり返して来たので、指を突っ込んで鼻血をとめていたら警察の人がティッシュをくれたので、私はそれを鼻に詰めた。
「署まで来て貰いますよ」と言われたので、私は焦って「逮捕ですか」と聞いた。警察の人は笑って、「今回は迷子扱いです」と言った。私は安心した。
事務所はこじんまりしてて、デスクは4つしか無かった。警察官はもう1人だけ。
 お母さんに連絡するというので、私は「お母さんは胃が悪いので勘弁してください」と頼んだ。警察の人は渋い顔をしていた。
住所とか、学校はどうしたとか、いろいろな事を聞かれた。
手帳は無いかと聞かれたので生徒手帳を出したらこれではないと言われた。
私は観念して今日の事を話した。警察官はわかった様なわからないような顔をしていた。
「じゃあ貴方は滑り台が怖いんですね。滑り台に何か嫌な思い出でもあるんですか」
私は笑って首を振った。先方は私が笑ったのが少しな気に触ったようだった。
「ピンク色だったのが悪いんです」
「じゃあ貴方はピンク色が嫌いなんですね。でもピンク色を見るたびにパニックを起こすんじゃ大変なんじゃないですか」
私はまた笑った。警察官は首を捻って怪訝そうに私を見た。
「私の問題なんです。何もかもが一致してしまった訳です。デジャブってあるでしょう。あれに似ています。作品でそれが起これば素晴らしいですが、現実に起こるとパニックになるんです」
「もっとよく説明してくれないとわかりません」
私は詳しく説明しようか迷ったけど、早くしないとお母さんが家に帰る時間になってしまうので、手短に済ませようとした。
「つまり、私が思い描く世界が現実に現れると怖いという話です」
「絵でも描くんですか」
「そうです」
「じゃあ貴方は芸術をやる人なんですね!!!」
警察の人が急に大声を出したので私はビクッとした。作品を見せたら、さっきと同じ顔で「じゃあもうそういう人なんだ」と言われた。

私はよくわからなかったけど、彼の中では何かが一致したらしく、私は急に帰る事になった。名前と住所と今日の出来事だけは記録された。

私は公園に向かって歩きながらさっきの会話を思い出した。

「ピンク色だったのが悪いんです」
「じゃあ貴方はピンク色が嫌いなんですね。でもピンク色を見るたびにパニックを起こすんじゃ大変なんじゃないですか」
「私の問題なんです。何もかもが一致してしまった訳です。デジャブってあるでしょう。あれに似てます。作品でそれが起これば素晴らしいですが、現実に起こるとパニックになるんです」

何かがおかしい。

「もっとよく説明してくれないとわかりません」
私は詳しく説明しようか迷ったけど、早くしないとお母さんが家に帰る時間になってしまうので、手短に済ませようとした。「つまり、私が思い描く世界が現実に現れると怖いという話です」

確かこんな会話だった。その時は警察官に話しながら自分自身も納得していくような感覚に陥ってしまった。でも、何かが違う。

公園に着いた。私は石畳の上に寝転がって、空を見上げた。

突然現れたピンクの滑り台の姿を鮮明に思い出そうとする。しかし、記憶は薄い膜を一枚隔てて、触れることの出来ない所にある。

ピンクの何かを見たのは確かだ。でもあれは、本当に滑り台だったのだろうか?

私は記憶がぶるぶる震え出すのを感じた。あの時の恐怖が再び迫って来た。

あれは確かにピンク色の、何かだった。ピンク色である事に間違いはない。そして遊具であった筈だ。

でも、私をあれほどの恐怖に突き落としたものは何だったのか。

私がそれを、あの場所にそのまま放置して来た事だけは確かだ。

一体、誰があんな所にピンクの滑り台を置いたというのだろう。

クソみたいな人生

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シドみたいに頭天国に行きたい、自分にとって世界が意味をなさなかったらどんなに素敵だろうと思う。

シドのカッコ良さがわかんないって良く言われるけど、まあストレートにカッコ良くはないでしょうねって思う。ダサすぎて、吹っ切れ過ぎてて、逆にもうなんかかっこいいじゃんって感じ。限界芸術。芸術家がゴミを見て感動してるあれ。

私はそういうのが好き。くだらない俗物根性で高尚ぶってる人間なんか吐き気がするし(私も十分スノッブですが)、一生ローマのグロテスクな宮殿でも崇めてろって感じ。

シドが血だらけでベース持ってる写真をはじめて見た時私は凄く興奮した。こうなりたい!って思った。

シナトラのカバーのMy Wayが凄く良い。音楽馬鹿にしてんだろって出来。理論とか技術とか何もかも糞食らえって感じ。私はなんでもややこしく考えちゃうタイプだから、めちゃくちゃ元気でる。

ミュージック・ビデオの観客が上品なのもまた良い。
繊細な花模様とかが描かれてる食器の上にゲロのせて出された、みたいなかんじ。素敵。

[下:アクリル絵具、粘土で作った作品]

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周りからどんどん人が居なくなっていく。

私のこと神様って言ってた人とか、持ち物とか服とか好きなものとか全部真似してた人も居なくなった。まあそういうのは友達とは少し違う気がするからいいけど。

皆どうせ居なくなるから、どうせ居なくなるんだろって思いながら過ごしてる。

小さい頃父に施設に預けるとか言われて育ったからか、誰かに見捨てられるのが極端に怖い。怖がりすぎだって、精神科医にも言われた。

見捨てられるのが嫌過ぎて人と仲良くし過ぎないように凄く気を付けてる。だからか、ずっと一緒にいても関係が進展しないとよく言われる。最初あった時から距離感が変わらないとも言われる。少しは頑張っても見たけど、結局一人になる。

愛着障害じゃない?とか言われるけどだからなんだようるせーな、って思う。だとしたら何?無責任に人に障害のレッテル貼って消えるんじゃねーよ、うるせー

父に男の子なら良かったのにって言われ続けたせいなのか、胸の膨らみが嫌で、制服の下にサラシとガムテープを巻いてた事も思い出した。そのせいで色んな差別にあった。ずっといじめられてたし。

でも髪は普通に長かった。なぜだか最近は坊主にしたいとよく思う。

あと父はお前に障害があったら育てられないとかも言ってたな。

私が小6でパンクファッションを始めたとき、父が
「俺が一番嫌いなタイプの女だ」と言っていて、私は嬉しかった。永遠にパンクでいようと思った。パンクは反逆の精神だから、私はパンクファッションで父に反逆することに成功したわけだ。自分が本物のパンクになれた気がした。

でもまあ、こんな人間だし、私がどんな人生を送ったかなんて皆興味ないし、友達はなかなか出来ない。よくわかんないけどめちゃくちゃな奴ってレッテルを貼られて嫌われることが多い。でも逆に極端に好いてくる人もいる。それはそれで困るんだけど。そういう表面だけのイメージで好きになってくれても、ついていけないとか、そんな人だと思わなかったとか言ってどうせ急に居なくなる。

夜になると急に自分が一人ぼっちな事が怖くなる。

粘土で作った胎児のために、赤ちゃん用のオルゴールをかける。お母さんの心臓の音入りのやつを。

粘土の塊を抱きながら狭い押入れの中に横たわると、なぜだか涙が出た。これじゃまるで私が赤ちゃんだ。自分で自分が気持ち悪い。全部がむかつく。

今までの記憶を遡ってはイライラして、そんな下らない事のせいで寝れない自分にもまたイライラする。いつもそうやって朝を迎える。睡眠薬が全然効かない。

なんだかまた怖くなる。私はこんな風に死ぬのかも知れない。そうやって何もしない同じような日ばかりがだらだらと続いていく。凄くイライラする。

別にどうでもいいんだけど。

暗いことばっかり言ってんな私。幸せになるとか全然考えられない。

 

 

2020年8月23日の記事を移動したものです。

ごみごみごみ

 

2020年7月三日の記事を移動したものです。

 

前にやってたバンドで、マライアキャリーみたいな歌い方を強要されてからいっときマライアキャリーが聴けなくなった。少し頑張って合わせてみたけど、やっぱり強要されると面白くない。しかもパンクファッションに文句言ってきたから腹を立ててやめた。その時はちょうど自分が本当にパンクなのか?見てくれだけパンクで中身はこんなに弱々しくて大丈夫なのか?と不安になっていた時期だったので少し応えてしまったけれど、パンク=実存主義ということで私の中で合点がいったので大丈夫になった。

相手の方から声をかけて来たから結局その人が何をやりたかったのかわからない。(そのバンドは最後お互い罵り合って終わった)私は小さい頃からかなり天邪鬼な性格で、やれと言われるとついそれとは逆の事をしたくなってしまう癖がある。自分でも凄くクズだなーと思う。でもそのかわり、前よりパンクが好きになった。
ロットンとかビアブラの歌声が染みるようになった。
これは自分では凄い収穫だった。もともと好きではあったけど、前より良さが解るようになって凄く嬉しい。

戦争の映画とかニュースを見ると凄く胸が痛くなって腹が立っていろんな政治家に文句つけたくなるから、デッドケネディーズとか聴いてるとすごくスカッとするし、ジョーストラマーが言ってたみたいに、ちゃんと社会問題について考えようって思える。

私はいろんな事に直ぐにムキになるし、ずっと何かしらもやもやしてるからパンクの人達が貧困問題とか、人種差別問題とか、そういうことに怒ってるのを見ると凄く共感する。

芸術に出来る事なんか何もないとかいう人がいるけど、街頭演説には耳を傾けない人でも、音楽は聴くだろうし、映画もみるだろうし、私は音楽とか映画とか、芸術の力は凄いと思う。

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クリームソーダを食べた。インスタグラムを始めてからいろいろ写真を撮るようになった。

不思議の国への逃亡

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2020年6月8日の記事を移動したものです。 

 

パラパラと本をめくっては閉じ、めくっては閉じ、をひたすら繰り返してる。何らかの哲学書に救われたような気がしても、ひょっとした、本当にしょうもないことがきっかけで、再び生きている事、存在することにわけのわからない漠然とした不安が呼び起こされてしまう。再び追い立てられているかのように本をめくっては閉じ、めくっては閉じを繰り返す。もちろん内容なんか頭に入っていない。今の世の中では気軽に街に出て気分転換というわけにもいかないから、ひたすら自分と向き合うことになる。そういう場合、鏡に写るのは過去の自分だ。未来の自分なんか知らないし、今の自分には自覚的にはなれない。そうなるとやっぱり自分と向き合うということは過去を振り返る事だ。過去の自分と言いはしたが、「過去の自分」なんてものは私にはないのかもしれない。「過去の自分」なんてかっこいい言葉で未熟だった自分を省みることができるのは、おそらく、まだ柔らかくて透明だった時間を「過ぎ去ったもの」として受け止めることの出来る人だけなのかもしれない。私は全て連れてきてしまった。心に受けた傷も、どろどろとした感情の塊も、制服のポケットにカッターナイフを潜ませていた小学三年生の凶暴さも。
私は世の中に対する冷笑的な態度を、随分と早くに身につけてしまった。
近所の子供のお母さんが「あの子と遊ぶとあんたまで頭がおかしくなるのよ」といったのを同級生の女の子から聞いた時も、学校の池からシューズを見つけた時も、誰かの罪をなすりつけられた時も、椅子に書いてあった死ねの文字を見つけたときも、父親に殴られた時も、私は感覚を捨てることに必死になった。自分が痛みをコントロールし、世界から離れることが出来るという事を私は誇りに思った。
当時気に入っていたのは芥川龍之介宮沢賢治の詩といった日本文学や、ルイスキャロル、ミヒャエル・エンデ、ヴェルヌ、などの冒険物語だった。特にルイスキャロルの作品を読むと、世界が薄い膜に覆われているかのように遠ざかって見え、心地よかった。
私は自分を救うために自分の世界を絵や小説にしていたが、今見るとどれも、シュルレアリズムに分類される類のものだろうと思う。
私は学校でも常に白昼夢の中でうとうとしていた。先生や周りの生徒、保護者はますます気味悪がり、私の絵は気持ち悪いだとか、影が紫で書かれているのが不正確だとか、そんなくだらない理由で破られたりもした。私はますます自分の殻に閉じこもるようになった。夜に見るのは血生臭い夢が増えた。空を自由に飛び回り、怯えてベランダにいる自分を上空から見守ったりもした。
高校生になってからも私はいじめを受け、私は本格的に精神科に通院する事を余儀なくされた。この頃から意図せずとも、空から自分を見下ろしているような、世界が自分から離れていくような、まるで自分が今いるのは並行世界であるかのような気持ちの悪い感覚に悩むようになり、先生には「幼少期からのトラウマによる離人症」だと言われた。
私にはこの言葉がイマイチピンとこない。私は占いも信じないし、幽霊も神も信じない。迷信深い方ではないだろう。それでも観念的には私はまだ不思議の国がどこかにあるような気がしていて、いつかそこに逃げれるような気がしている。私が作品を作るのが好きなのは、何かを作るという行為は、白昼夢と同じように私をどこか遠くへ連れて行ってくれるからだ。

アイリッシュマン

2020 1/16に、ブログに書いた記事を移動しただけです。

アップリンク渋谷さんでアイリッシュマンを観てきました。

客のおじいちゃん率も演者のおじいちゃん率も高い。(私自身は頭の悪い若者です)

スコセッシはマーベル発言が記憶に新しいけど、何年か前に自分の作品ミーンストリートについても「これは映画(film)では無い」って言ってました。

スコセッシの作品は大好きだけど、正直そこまで期待していなかった。良い監督といってもずっと良い映画を撮れるわけじゃないし。
しかも私CGがほんと苦手だから不安しかなかった。

でもこの作品は本当に良かった。凄かった。

まだ観ていない人に言いたいのは是非観て欲しいっていうのと、ギャング映画っていっても銃撃戦とかアクションとかマフィアのかっこよさとかをメインに描きたい作品じゃないからそういうド派手なエンターテイメントは期待せずに観てくださいってこと。

若者ウケはそんなには期待出来ない作品かも知れないね。でも観てみてね。アップリンクとかでの上映終わっちゃったんならNetflixに入ってね。私はまだ入ってないけど。

最近の若者は(私もまだ一応ティーンエイジャー)(だから嫌味な老人的な意味じゃないよ)エンタメ作品がスタンダードだと思ってるからこういう映画を観るとナニコレつまんなってなるかも。
(だからこそ、そこらへんはちょっとしたジャンル分けが必要だよね。純文学と大衆文学みたいなもん。映画だともっとグレーゾーンが多くて厄介なんだけど。これを観て派手なシーンが無いことを"映画的に"面白くなかったみたいな表現をするのは違う。本当にいろんな作品みてて自分の中の映画が何か考え抜いた人ならそれはしょうがない無いけどね。そんなものに答えなんかないけど。ちなみに私はどっちも好き)

でもベルトルッチの『革命前夜』に出てくる「僕は現在に郷愁を感じる熱病患者だ」っていうセリフに共感するような若者ならちょっと応えると思う。

アカデミーにもノミネートされてるけど何がそんなに評価されてるのかっていう人もいるだろうし、過大評価!みたいな意見も見かけたので勝手に面白さを語りたいと思う。

派手なシーンは本当に全然ない。
メインテーマとなるのは死生観。
めっちゃ泣いた。横のおじいちゃん寝てたけど。
帰り道でもずっと泣いてた。

そしてアイリッシュマンの感想を書く為だけにブログを開設した。誰かにこの良さを伝えたい。

今から内容めっちゃいうからね。観てない人は観てからみてね。

後これは評論とかじゃなくて理解を深める事を目的にした感想文だからテクスト論とかそういう何かのスタイルに合わせて書くみたいなのはしないよ。
映画の感想は作家の意見あんまり関係ないと思うけど、スコセッシ本人の過去の発言とか作品の解説と照らし合わせて考えてゆくよ。

(この作品はメインテーマとかがミーンストリートに似てるから対比していくね)(だからミーンストリートもみてね)

グッドフェローズ観てなきゃ、みたいな事言ってる映画アカウント(?)もいっぱい居たけど別に観てなくても良いと思う。ミーンストリートは初期の作品だから観てるとスコセッシの映画の見方が少し変わるんじゃないかなあ、と思う。個人的にね。

じゃあメインテーマだっていった死生観について述べていくよ。

この作品では独特のテンション(緊張感)で人が死んでいく。
陽気さとある種の静けさが共存するR&Bやジャズに合わせて物語は走馬灯のように進む。
この時間の流れ方はお葬式の会場での時間の流れ方に似てる気がするな。
人々が行き来する中、目にも鮮やかな花束のクロースズアップの背後で聞こえる銃声。
日常会話をしながら、誕生日を祝いながら、キリストの像の前で、一瞬で殺される人達。
殺された人達はこういう闇の組織に関わってるんだから死の存在を間近には感じていただろうけど、まさか今だとは思わなかっただろう。

暗殺が終わるとフランク(デニーロ)は使用した武器を必ず海に投げ捨てる。

この海に銃を投げ捨てるシーンがわざわざ何回も描かれているのには意味があって、パターン化することによってテンポを整えるのと、殺されていく人達が日常の中で突然死を迎える事を強調する意味がある。

でももっと重大なのはホッファ(アル・パチーノ)が殺されるシーン。

この映画はここからがさらに面白い。

出会ってから少ししてフランクとホッファがホテルの同室に寝るシーンでは、
フランクがサイドテーブルに銃を置いてる上に、ちょっと銃に触れてみたりもするし消灯後ももぞもぞ動いてたりしてホッファ撃たれるんじゃないか?って少し心配になる。

でも映画が進むに連れて二人の絆は固いものになっていって、そういう緊張感は消える。

だから車のシーンで、ホッファがフランクを見て安心して車に乗るシーンも、
撃たれる直前の、部屋に誰も居なくて怪しいから「早く出よう!」ってフランクの腕をとるシーンも本当に切ない。

他の人物と同様、日常の中でホッファは殺される。この映画では、友人を殺すシーンでさえ、躊躇して涙ながらに引き金を引くとかそういうドラマチックな感じでは描かれない。

私は暗殺にフランクが関わる事を決めた時は、もし殺されるなら銃声だけ聞こえるとかかなって思ったんだけど、スコセッシはそんなことはしなかった。

他の殺された人達同様、血が飛び散って倒れる。しかも死体を焼くシーンまで映る。

スコセッシの暴力描写は本当に洗練されてる。面白がったり、残酷さに酔ったりするんじゃなくて、一つ一つに映画の価値観や主人公独自の倫理を保つための意味がある。

なぜ死体を焼くシーンまで映るのかっていうと観客にへんな予測をさせない為だね。例えばこれが収入を安定させるために続きを制作することも念頭に入れて作られるフランチャイズ映画だったとしたら、
銃口を向けはするけどやっぱり出来なくて、(音だけで描いてしまうと、撃つふりはしたので観客に音は聴こえたが実は…という抜け道が)二人で敵に立ち向かい、困難を乗り越え返り討ちにして勝利!とか、
アイリッシュマン2で、フランクが窮地に陥った時にホッファが助けにきて実は生きてました!(火葬シーンを描かなければ急所はまぬがれたとか様々な抜け道が)友情は絶対!
みたいな感じで選び放題。けどこの作品では無理だね。

ただホッファの死が他の人と違うのはフランクがホッファを撃ち殺した銃を海に捨てなかったって所。

これはフランクはベストを尽くしたんだなって思わせてくれる重要なシーン。(これがまた歳を取ってから揺らぐんだけど)

スコセッシの映画のメインテーマは「一見モラルがあるように見えても、不条理で矛盾だらけの世の中で、いかにして己の正義や価値観を確立していくのか?」っていうのと「己の正義感と現実で守るべきもの(こっちも自分の正義感でもある)が対立した場合は必ずどちらかを裏切ることになる為、自分にとって善悪とは何か?」っていうのだね。

彼自身の言葉だと「(聖書の解釈について)この世界にモラルがあるとは限らない。既存の価値観を超越し、独自の法律を持ち社会に向き合う方法を教える。社会というより部族単位の世界」(ミーンストリート解説)って言ってる。

これは国や州が定めた法とマフィアの世界の法の間に板挟みにされたスコセッシだからこその、根本的なものを問い直す命題だね。

マフィアの世界では「でも法律違反だし〜」とか言ってらんない。
でも彼らの言いなりになってどんな悪事でも働くのか?って言ったら違うよね。そんな人生には意味がないもん。マフィアの世界の法は不文律だから、自分が人間として意思を持って生きていく上で、自分の中に法を作る必要があるんだね。

自分の法で生きてるってなんか勘違いされがちだけど誰にでも必要なことだし、
これはマフィアだとよりわかりやすいってだけで本当に誰にでも通じることだよね。いじめとかに例えてみるともっとわかりやすいかも。

でも実は、この作品のテーマはこれです!っていうのは本当はすごく難しい作品なんだよね。全てを包括できるような壮大なテーマだから。

スコセッシはミーンストリートの解説で、自身の出身地について「私の故郷は人を裁かずあるがままを受け入れた。だから私も人の善意を裁くつもりは無い。可能な限り最善の方法で人に接するだけだ」と言っている。

この人の善意を裁くつもりは無いってのはかなり重要な言葉だね。スコセッシは社会不適合者を描くから厭世家でメインカルチャーに中指たててる、みたいに思われがちなところもあるけど、スコセッシは世の中も人間も社会もクソだ!みたいなシニシズムには全然染まってない。

友人の暗殺は、家族を守るためにも、自分が生きていくためにも仕方がなかった。

家族を守るためにホッファを殺した時のフランクは、銃を捨てないという行為で最善を尽くした。

と思いたいんだけど

この「やるしかなかった」という安堵感は簡単に打ち砕かれる。しかもそれが「実はこんな事実がありました!」みたいなドラマチックな出来事によってではなくて、歯が抜けて滑舌の悪いラッセル(ジョー・ペシ)がご飯をもぐもぐしながらいう
「ちょっとやりすぎちゃったかなって思ってるんだよね〜」っていう一言。「は?」って感じでマジで腹たつんだけど、フランクは微妙な表情。
(すごいなこの台本。妥協がない)

だから「"あの瞬間の"最善を尽くしたんだ」って言う解釈のほうがしっくりくるかな。

不条理の極みだけど人生ってそんなもんだよね。

私はカミュとかカフカとかが好きなんだけど、このシーンは太陽が眩しかったから人を殺しましたっていう『異邦人』よりも、地味で表面上納得できる理由があるぶん、もっと凶悪な印象を残す。

殺さない方が良かったとも、殺したのは仕方がなかったとも言えない。グレーゾーン。答えが見つからない。フランクの微妙な表情が全てを物語ってる。

スコセッシのこういう人生観にはミーンストリートを作るきっかけになった、青春時代に体験した、遊んでた他の地区の友達がその日の帰りに突然殺された事件や幼少期の体験がかなり影響してると言える。

後ミーンストリートではホッファみたいな問題児をデニーロが演じてたけど、モデルになった叔父の問題行動についてスコセッシは「死なせたく無いなら手を打たねば」って言ってる。
両方の作品でこういう「権力に迎合出来ない人間」「周囲に合わせられない人間」を守ることの難しさが描かれてるけど、フランクとか周囲はホッファにかなり強烈目な脅しをかけたりとかして、割と出来ることはやったんじゃ無いかな…?とも言えるし、不十分であったとも言える。もうこれは本当に人生そのもの。

どこまでも倫理観を保つことの難しさが描かれている。

後スコセッシは宗教観も面白い。

キリスト像の前で人が殺されるシーンからも、
フランクが神父に懺悔を求められて「そんな電話は出来ない」(神が対象ではない)っていうシーンからも、スコセッシの独特な宗教観がうかがえる。

一見すればアンチクライストか?ってなりそうなこのシーンだけど、スコセッシはキリスト教なんだよね。それも映画監督じゃなければ聖職者になりたいと思ってたほど。

スコセッシは幼少期から喘息に苦しんだ。
「私は都会の生活に上手く溶け込めなかった。溶け込んだとしても私は傍観者で、行き延びることに必死だったんだ」
と語るスコセッシは一番落ち着く場所が教会の墓地だったらしい。
だからスコセッシにとって宗教は生き伸びるために必要なものだった。

そんな背景からか、彼の宗教観はびっくりするほどタフ。ミーンストリートの解説でスコセッシは「教会で罪は償えない。許しを求めても無駄。どんなにいい人でも、日曜の朝毎回教会に行っても無駄。他人への行いでしか人は許されない」という。神父とのシーンでのやり取りも腑に落ちるよね。

あとミーンストリートでも贖罪がテーマなんだけどチャーリーの罪悪感は漠然としたもので、何に対する贖罪かは明らかにされない。

フランクは自分の贖罪の為に(ここでも贖罪というのはぼんやりしていて、一種の比喩表現のようなものになっている)娘達との関係の修復を図るけど、時すでに遅しで孤独を深めていく。このフランクの罪悪感というのはホッファを殺した為だけのものでは無い。娘たち本人に向けってっていうのもあるし、とにかく誰かに許してもらいたいっていう漠然としたもの。

自分が決めた正義に完全に従って生きるのは現実世界では無理だから、人間は生きてるだけで大なり小なり罪を犯す(=生きていることの罪)だからスコセッシの描く主人公は贖罪を求めるんだろう。(夏目漱石の『こころ』みたいだね)

あとCGIで若返った役者陣には違和感を感じつつもまるで現代を彷徨う亡霊のような美しさがあって拒否反応と同時に思わず強く惹かれてしまう部分がある。
この不思議な感覚は岩波文庫アンドレ・バザン『映画とは何か』に収録されてる
「写真映像の存在論」っていう論文の「もし造形芸術に精神分析を適用したならば、死体に防腐処理を施す習慣が、造形芸術の誕生の重要な契機とみなされるかもしれない」っていう冒頭一文がヒントをくれそう。同じ文の中でバザンは彫像制作の最初の役割は「外見を保つことで存在を救う」ことにあるって言ってる。おもろいね

牢屋の中も印象的。

皆でボール遊びをしたり、喋りながらご飯を食べたり、保育園か老人ホームみたいだ。

タルコフスキーの『鏡』に 「人間に肉体は一つしかない。独房だ」 って言うセリフが出てくるんだけど、なんとなくそれを思い出した。
(このセリフはプラトンからきてたんだっけ…??忘れちゃった)

棺桶を選ぶシーンの
「これは棺桶界のキャデラックですよ!」
って言うブラックなジョークも、バランスを崩して床に倒れるフランクの姿も、妙な静けさがあって、全編を通してまるでお坊さんの話を聞いてるみたいだ。

この映画は繰り返しが多いこととか、最後にフランクが棺や教会の地下を見に行ったりするもあって、人生の閉鎖感というものを痛いほど重い知らせてくれる。
しかも年老いたフランクは、杖や車椅子無しでは移動することもできない。

だから去ろうとする神父にフランクがドアをちょっと開けておくように頼むシーンが本当に泣ける。

ミーンストリートで元気に飛び回るデニーロを見てるから尚更。

でもスコセッシはそんなことを嘆き続けるほどヤワじゃない。人間の醜さとか人生の不条理さに、
「まったくもう嫌んなっちゃうよな」
って苦笑しながら、なんだかんだで全てを受け入れて、最大限に楽しもうとしてる。
そういうことも全て含めて、スコセッシという人は結局人間が大好きなんだろう。

ミーンストリートの解説でスコセッシが監督業や人生の大変さをアボットandコステロのギャグに喩えて笑っていたことを思い出して、そのタフさに思わずこっちまで笑ってしまう。

スコセッシの笑いはブラックだけど冷笑的じゃなくて、それが誠実さと強さに繋がってる。

メインとなるテーマは共通するのに、ミーンストリートは手法も編集も音楽からも爆発するような若さが感じられて、新しい時代に変えて行こうっていうパワーと、不条理な人生を生き延びていこうという覚悟を感じる。
一方アイリッシュマンは哀愁と、新しくなっていく時代を遠くから眺める老人の孤独、不条理な人生を思い返して思わず笑ってしまうような、死を間近にした人間の静かな覚悟を感じる。

タクシードライバーのロバートデニーロとマーティンスコセッシは、
私にとって、デニスホッパーとか、ジェイムズディーンとか、マーロンブランドと並んで若さや青春のアイコンでもあるので、
フランク役のデニーロの「人生はあっという間だ」というセリフも、遮った看護師のああまたおじいちゃんなんかいってるよ的な感じもかなり心にグサリと刺さった。
あと老人ホームでデニーロが語り出すシーンから、もう本当に泣ける。
デニーロは笑顔が素敵だし、ミーンストリートでは氷で目を冷やすシーンの爆発するような笑いが随分印象に残るけど、本作での彼は笑顔にさえ影があって寂しい気持ちになる。

ここまで誠実に人生を描いた作品は珍しい。

あとハーヴェイ・カイテルも出てきてなんかねえもうなんか泣ける。

かなり余韻が残る作品で本当に思い出しては泣いてる。アカデミー賞なんてどうでもいいけど私の中ではこれが最高賞。

スコセッシはお気に入りの作品をみるに芸術!!哲学!!みたいな高尚な文化が大好きなんだけど、本人が作る作品は泥臭さというか、それまでの作品には無かった高級なイデオロギーとリアリティと汚さとカッコ良さとアメリカ的な低俗さが混在してて本当に最高。唯一無二だなぁって思う。

マフィアっていう派手な設定に気を取られがちだけどミーンストリートのメインテーマがジョニーボーイの幼児性ですらないと語るスコセッシが打ち出すテーマは、もっと普遍的で人生を俯瞰したようなもので本当にすごい。

過大評価なんてコメントもあったけど私からすれば十分に評価されてないくらい。

あとこの記事でめちゃくちゃ引用しまくったスコセッシによる一時間越えのミーンストリート解説はガチで面白いので是非きいてみてね。

本当すごいよスコセッシは。

次回作が楽しみ。