硝子戸の中

雑記用

パトカー

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 2020年9月5日の記事を移動したものです。

 

 

九月五日、土曜日。
今日は病院の帰りにどこか遠い所に行きたくなって、いつもは曲がらない角を曲がった。
 そこは少しひんやりした通りで、さっきまでのうざったるい太陽の光が届かないことが嬉しくて、私はつい、飛んだり跳ねたり、ぐるぐる回ったりしながら進んだ。青い空を中心にして、新鮮な景色がぐるぐる回る。すごくきもちがいい。

 それでもそうやって暫く行くと、いつもの通りに出た。私は残念で仕方がなくて、しばらくの間前を睨みつけたままぼーっと突っ立っていた。そのまま五分くらいが過ぎたと思う。やっぱり、どう考えても、もう家じゃん、そう思ったらすごくムカついて来た。
誰がこのまま家に帰るものか。

すこし行った先に廃アパートが30件くらい並んでいたのを思い出した(数えてはないけど、すごく沢山あることだけはたしか)。
 今度は怒りに任せて、熱くて重たい空気を両手で斬るように、ぐるぐると回りながら進んだ。
 私は幼い頃からもやもやすると両手を広げてぐるぐると回る癖がある。よく怒られるけど、今日は車もあまり通らないので良い。
 廃アパートに着くと、すこし安心した。誰も住んでない大きな建物が並んでいるのは不気味と言えば不気味かも知れないけど、昼間だから全然怖くない。私はぐるぐる回って歌いながら廃墟の間を行ったり来たりした。凄く楽しかった。

画像1

廃墟の中をそうやって進むと、段々木の影が濃くなって来て、私は怖くなった。

 自殺者が多いという山に私を置き去りにした、精神病を患っていた叔母の事を思い出した。

 私はすこし不安になったけど、歌はやめなかった。回るのもやめなかった。

 そうやってもっと奥へ奥へ進むと、空気中の濁色が増えてきた。そして唐突に、通路を塞ぐようにして置いてある、ピンクの滑り台が見えた。

皮膚が泡立つのを感じた。谷底に突き落とされたような急激な不安が私の全神経を襲った。脚が竦んで手がぶるぶると震えた。

その先に進んでは行けない気がした。

今考えてもぞっとする。
何故だかわからないけど、凄く怖かった。

灰色の中に突如浮かんだパステルカラーが、この世のものではないように不気味だった。
私はパニックを起こして絶叫しはじめた。不安で口がカラカラに渇いた。

私は走りながら叫び続けた。背後から何かに追いかけられている様な気がした。

 出口に人影が見えて、私は怖くなってうずくまった。
「大丈夫ですか」
頭上から声がする。この声は信用してはならない。私はもっと強く叫んだ。
「落ち着いてください」
私は過呼吸を起こした。気づくと地面が血塗れだった。
「警察のものです」
それを聞いて私はほっとして顔を上げた。
「鼻血が出てますよ」
私は鼻をこすりながら警官の顔を見た。優しそうな中年男性だった。
「どうなさいましたか?」
私は特にどうもしていないので、「どうもしませんのでもう帰ります」と答えた。警察の人はキョトンとしていた。
私は帰ると言い張ったけど、警察の人は帰してくれなかった。かわりに優しくパトカーに乗せられた。
車内は涼しく、私は少し楽しい気分になって、つい鼻歌をうたった。
 血の巡りが回復してきたせいか、さっきの鼻血がぶり返して来たので、指を突っ込んで鼻血をとめていたら警察の人がティッシュをくれたので、私はそれを鼻に詰めた。
「署まで来て貰いますよ」と言われたので、私は焦って「逮捕ですか」と聞いた。警察の人は笑って、「今回は迷子扱いです」と言った。私は安心した。
事務所はこじんまりしてて、デスクは4つしか無かった。警察官はもう1人だけ。
 お母さんに連絡するというので、私は「お母さんは胃が悪いので勘弁してください」と頼んだ。警察の人は渋い顔をしていた。
住所とか、学校はどうしたとか、いろいろな事を聞かれた。
手帳は無いかと聞かれたので生徒手帳を出したらこれではないと言われた。
私は観念して今日の事を話した。警察官はわかった様なわからないような顔をしていた。
「じゃあ貴方は滑り台が怖いんですね。滑り台に何か嫌な思い出でもあるんですか」
私は笑って首を振った。先方は私が笑ったのが少しな気に触ったようだった。
「ピンク色だったのが悪いんです」
「じゃあ貴方はピンク色が嫌いなんですね。でもピンク色を見るたびにパニックを起こすんじゃ大変なんじゃないですか」
私はまた笑った。警察官は首を捻って怪訝そうに私を見た。
「私の問題なんです。何もかもが一致してしまった訳です。デジャブってあるでしょう。あれに似ています。作品でそれが起これば素晴らしいですが、現実に起こるとパニックになるんです」
「もっとよく説明してくれないとわかりません」
私は詳しく説明しようか迷ったけど、早くしないとお母さんが家に帰る時間になってしまうので、手短に済ませようとした。
「つまり、私が思い描く世界が現実に現れると怖いという話です」
「絵でも描くんですか」
「そうです」
「じゃあ貴方は芸術をやる人なんですね!!!」
警察の人が急に大声を出したので私はビクッとした。作品を見せたら、さっきと同じ顔で「じゃあもうそういう人なんだ」と言われた。

私はよくわからなかったけど、彼の中では何かが一致したらしく、私は急に帰る事になった。名前と住所と今日の出来事だけは記録された。

私は公園に向かって歩きながらさっきの会話を思い出した。

「ピンク色だったのが悪いんです」
「じゃあ貴方はピンク色が嫌いなんですね。でもピンク色を見るたびにパニックを起こすんじゃ大変なんじゃないですか」
「私の問題なんです。何もかもが一致してしまった訳です。デジャブってあるでしょう。あれに似てます。作品でそれが起これば素晴らしいですが、現実に起こるとパニックになるんです」

何かがおかしい。

「もっとよく説明してくれないとわかりません」
私は詳しく説明しようか迷ったけど、早くしないとお母さんが家に帰る時間になってしまうので、手短に済ませようとした。「つまり、私が思い描く世界が現実に現れると怖いという話です」

確かこんな会話だった。その時は警察官に話しながら自分自身も納得していくような感覚に陥ってしまった。でも、何かが違う。

公園に着いた。私は石畳の上に寝転がって、空を見上げた。

突然現れたピンクの滑り台の姿を鮮明に思い出そうとする。しかし、記憶は薄い膜を一枚隔てて、触れることの出来ない所にある。

ピンクの何かを見たのは確かだ。でもあれは、本当に滑り台だったのだろうか?

私は記憶がぶるぶる震え出すのを感じた。あの時の恐怖が再び迫って来た。

あれは確かにピンク色の、何かだった。ピンク色である事に間違いはない。そして遊具であった筈だ。

でも、私をあれほどの恐怖に突き落としたものは何だったのか。

私がそれを、あの場所にそのまま放置して来た事だけは確かだ。

一体、誰があんな所にピンクの滑り台を置いたというのだろう。